みなさん、どうも僕です。
わたくし2児の父親でして、日々子どもと向き合いその成長ぶりを、いささか大変だったりしますが、楽しみながら子育てをしております。
そんな子供との日常生活での一コマから、父親って、人間って「いい人」じゃないとダメなのかな??って疑問が湧いてきたので、父親としてのあるべき姿について今日は書きたいと思います。
だらしないお父さん
わたくし、自分の書斎と言いましょうか、自分の部屋があるんですが、
ま、自分の部屋と言ってもヨメが「加齢臭が臭い」と勝手に非難・・じゃない避難して出て行ったので、結果わたし1人が残った部屋なんですが・・(ロンリー・・)。
たまに子供たちがわたしの部屋に来ると
「お父さんの部屋、汚いなぁ」ってゲラゲラ笑うわけです。
ま、たしかに整理整頓が出来てなくって言われても仕方がないのですが、自分の子供じゃなかったら延髄斬りを食らわせてやろうかと思うぐらいチョットいらっとしてしまいます。
ま、当たっているからこそ、「クソーっ!」って思うんですけど・・。
そういうやり取りの中で、
「あぁオレってだらしないなぁ」って思いますし、「もっと良い父親じゃなきゃなぁ」とも思ったりします。
「子供は親の鏡」と言いますし、もしわたしが「聖人君子」のようにピッカピカの人間だったら、良い子供が育つのかなぁ、そんなことを考えたりもします。
「父親」になるには「昇格試験」はない!
父親になるって、結婚して子供が出来れば、「自動的に」そうなってしまいます。
会社の役職のように「昇格試験」があって適正を試されるわけではありません。
誰でもなれてしまいます。
よくヨメにも言われるのですが、「父親としての心構えが出来てないんじゃないの?」って。
ヨメにもできれば延髄斬りを食らわせてやりたいところですが、ま、ある意味当たっているので何も言い返せません。
わたしは父親という「おっさん」の背中を見て育った
じゃあ、自分が子供だった時はどうだったのか。
ウチの父親は先日、脳梗塞で入院してしまい、オヤジギャクを言っていたオッサンが、今はロクに言葉も発することができず寝ていますが、この「おっさん」の背中を見て、わたしは育ちました。
鉄工所勤めで1日500円のお小遣いを母親をもらい、毎日お弁当を片手に出勤している姿が今でも蘇ります。
で、会社から帰ってきたら、ビールを飲みながらジャイアンツ戦を観戦。
大して子供の勉強に口をだすわけでもなく、ある意味「我が道を行く」オヤジ像をリアルに再現していただけの存在です。
特に人並み外れて人間性ができていたわけでもなく、車のダッシュボードにエロ本を発見してこともある、ごく普通の「おっさん」です。
イギリスで言うところのごくごく一般的な「労働者階級」の暮らしをしていただけだと思いますが、今から思うと、この「おっさん」が何も語らずして、「生きるってこういうことや」って教えてくれたような気がします。
勉強は大学に行ったりして、色々と知識だとか学んだけど、生きていくために必要な「根っこの部分」
「苦しい時には頑張るんや」
「人に迷惑かけたらアカンのや」
「おまえはオレと違って大学行ってエエ会社入っていい暮らしをしろ」・・・
どれもこれも大したこと言ってないし、ごくごくシンプルなことを言ってるだけ。
でもこういうシンプルな教えというか口癖が40歳を過ぎたわたしの心の深い部分に残り続けています。
こんな父親に育てられて、「今」があるし、それが孫の世代に繋がってる・・。
そう考えると、
親って「聖人君子」である必要ってあるんかな??
って思います。
子供に伝えること、それは、あらたまって教科書に書いてあること、綺麗事を語ること、そんなことじゃない!
ありきたりな、ごく平凡なおっさんが、飾り気もなく、多くの人に特に評価されなくても、日々を懸命に生きる・・・ それをしっかりと教えてくれた父親はホンマにエライと今になって思います。
まとめ
こんなことを考え始めたのは、親父が脳梗塞を発症して、その後遺症次第では「もう話ができないかも・・」ってフト考えるようになったから。
「子供は親の鏡」それは間違いはないけど、「庶民たるものかくあるべし!」ということを無言で指し示してくれた父親の存在は今でも大きいと言えます。
子の親であれば「立派な人間」であれば言うことなしですが、子供にホントに伝えたい事は何なのか、押し付けじゃない親の思いが伝わるよう立ち振る舞っていきたいと思います。
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