なぜ織田信長が本能寺にいたのか、無性に気になるアナタにオススメの記事です!
歴史好きのみなさん、どうも僕です。
新年が来ましたね~!なにかと「寺社詣で」が増える季節ですね~。
僕もね、京都にぶらっと遊びに行ってきたわけなんですけど、京都って歴史にゆかりにある場所が目白押し。
ってことで、「ほんのうじのへ~ん♪」で有名な本能寺に行ってきたんですよ!
本能寺といえば、織田信長が家臣だった明智光秀に討ち取られた最後の場所。
でもね、本能寺ってそれだけの場所じゃないんです!なかなか一般的には知られていないナゾがあるんです!
ってことで、本能寺のお寺の人にいろいろと知られざる言い伝えなどを聞いてきたので、今日は衝撃の本能寺の真実をお伝えしたいと思いますよ!
Contents
本能寺とはこんなお寺
本能寺は、日蓮の教えを伝える法華宗本門流の総本山です。
世間的には織田信長が最期を遂げた「本能寺の変」でよく知られるスポットでもあります。
現在の本能寺は、京都市役所のほど近く、京都市街の町なかにあり、建物に囲まれてひっそりたたずんでおり、今なお数多くの信者や観光客に愛されている存在です。
織田信長が最期を迎えた場所ということで、信長を祀る御廟も建てられており、歴史ファンも数多く訪れる場所となっています。
そんな本能寺ではありますが、一般的に知られているイメージといえば、やはり「本能寺の変」が強いんですが、あまり知られていない事実も結構あるんですよね~。
次になかなか知られていない本能寺の真実についてお伝えしていきましょう!
本能寺の真実1 「本能寺の変」当時の本能寺とは場所が違う!
まずね、今回本能寺に行こうと思って初めて知ったことです。
織田信長が明智光秀に攻め入られて命を落とした「本能寺の変」当時の本能寺は、現在とは別の場所にあったんです。
上のグーグルマップを見てもらえればわかりますが、今の本能寺は京都市役所から御池通という道を挟んで真南にあります。
対して、「本能寺の変」当時の本能寺は、今の本能寺から徒歩で22分ぐらいのところと結構離れた場所(京都市中京区元本能寺南町)。
その本能寺跡はその後建てられた本能小学校が廃校となったため、現在は京都市立堀川高校本能学舎として利用されています。
現在の本能寺は、1582年の本能寺の変で焼けてしまったため、10年後の1592年に織田信長の家臣だった豊臣秀吉が命じて移転、再建させたものなんです。
厳密に言うと、現在の本能寺の場所で信長が死んだわけではない、ってことになりますから、これはぜひ知っておきましょう!
本能寺の真実2 本能寺は破壊、消失を経て何度も作り直されている!
本能寺が場所が当時とは違っていることをお伝えしましたが、本能寺の歴史は移転と再建の歴史と言っても過言ではありません!
まず本能寺が出来たのは、室町時代の1415年、法華宗の僧侶・日隆により「本応寺」として創建されました。
その後、同じ法華宗の妙本寺宗徒により破壊され、今の二条城近くに移転したのが1回目の移転。
ある人物の寄進を受けたことから別の土地に移転し(移転2回目)、名称を「本能寺」と改号するも、宗教間の争いにより焼失。
消失から数年経った1545年に、織田信長と親しかったことで知られる日承上人が本能寺を再建、しかしあえなく本能寺の変により再び焼失。
秀吉が現在の場所にて本能寺を再建するも(3回目の移転)、京都市街の8割が消失したといわれる「天明の大火」(1788年)により三度焼失。
1840年に再建されるも、長州藩勢と江戸幕府勢力が争った蛤御門の変でも寺がまたまた焼失。
そして、1928年に現在の本堂が建てられて、今に至る・・というわけです。
この紆余曲折の裏には、歴史に翻弄された本能寺の姿がある!ということが言えるわけです。
本能寺の真実3 本能寺の「能」の字が違う!
上の写真は本能寺で配布されているパンフレットですが、よく見てください!
本能寺の「能」の字が違いますね!
たびたび火災に見舞われてきた本能寺にとって「ヒ」(火)は災難を呼ぶもの。
もう火災は御免ということで、「ヒ」が「去る」ようにと、この字を当て字として使用している、というわけです!
なるほど~という話ですね!
本能寺の真実4 織田信長と本能寺は元々、蜜月関係にあった!
ご存知の通り、織田信長はここ本能寺で明智光秀のまさかの襲撃の際、自刃して最期を迎えたわけですが、
そもそも、なぜ信長が本能寺にいたのか!
ということが気になりませんか??
非常に気になりますよね!
実は信長は「本能寺の変」に遭遇するまで、本能寺に4回宿泊していたと言われています。(本能寺の変が4回目の宿泊時)
つまり、本能寺と信長は非常に仲が良かったということが周知の事実だったわけです。
では、なぜ両者は仲が良かったのか?!結びつけるものは何だったのか?!
その辺に迫りましょう!
本能寺の日承上人は皇族出身で天皇家とパイプを持っていたから!
当時、本能寺の主である日承上人は実は伏見宮の出、つまり皇族出身だったのです。
全国統一により権力を掌握したいと考えていた信長と言えども、征夷大将軍となるからには朝廷、つまり天皇家と懇意にしておくことが必須。
その信長にとって日承上人との繋がりを大切にすることが、後々の自分の天下取りにとって優位に働くことを考えていた、という風に捉えることもできます。
当時、信長は比叡山延暦寺など宗教組織への弾圧を行っていたわけですから、特定の寺と仲良くするというのは一見相反する行為のようにも取れます。
天下統一を目指す信長の思惑を知る、興味深い一面でもありますね。
本能寺経由で鉄砲や火薬を調達していた!
本能寺は布教活動に熱心であり、種子島でも早くから布教を行っていた結果、多くの信者を持っていました。
で、種子島と言えば、どんなところか・・
そう!ポルトガル人が日本に鉄砲を伝えた場所ですね!
つまり、種子島に多くの信者を抱える本能寺との繋がりにより、信長が大量の鉄砲や火薬を確保する際に優位に働いた、というわけです!
当時の本能寺の本堂の下には火薬庫があったと言われています。
そこに大量の鉄砲や火薬が保管されていたということで、天下統一を行うためには、武器の調達、確保を可能にする本能寺の存在は非常に大事だった、ということが言えるわけです。
「本能寺の変」というひとつの出来事だけを捉えるのではなく、その伏線となっているさまざまな事実を紐解いてみると、実に興味深い!
これまで一つの側面でしか見ることができなかった歴史が、また違った見方ができるようになって面白いですよね!
本能寺のアクセス、営業時間
住所:〒604-8091 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
電話番号:075-231-5335
交通アクセス:地下鉄東西線 「市役所前駅」すぐ、市バス・京都バス「河原町三条バス停」すぐ、京阪「三条駅」徒歩5分
駐車場:敷地内にあり(30分200円)
営業時間:9:00~17:00 (寺務所)
本能寺ホームページ http://www.kyoto-honnouji.jp/index.html
まとめ
破竹の勢いで全国制覇を目指していた織田信長は、本能寺でまさかの形で最期を迎えるわけですが、歴史を揺るがす大事件の舞台、本能寺にはさまざま奥深い真実があったのです!
あなたも歴史の一端を垣間見るために本能寺を実際に訪れてみてはいかがでしょう!