どうも僕です。
みなさんは鹿児島県の知覧という町にある「知覧特攻平和会館」という施設があるのはご存知でしょうか。
太平洋戦争(当時の呼び方は大東亜戦争)末期、沖縄にほど近い、この知覧から多くの若者が、大量の爆薬を抱えた飛行機とともに飛び立ち、アメリカ軍の敵艦めがけて突っ込んでいきました。
国のため、愛する者のため・・
彼らは自ら、生きる権利よりも、むしろ国を守る義務を主張したのです。
「生きる」という人間に本来与えられている権利を投げ打って、国をそして家族を守るための義務を全うすべく南方の海へと消えていったのです。
ある者は自分の幼い娘に見立てた人形を持って、
あるいは離れ離れになってしまった婚約者の形見のスカーフを巻いて・・
命や平和の大切さを知るとともに、これからの人生をどうすればいいのか、そういったことまで考えさせてくれる一度は訪れてみたい施設、そんな知覧特攻平和会館をご紹介したいと思います。
Contents
知覧特攻平和会館とはどんなところか
危機に瀕した日本を憂慮しながら敵艦に体当たりしていった特攻隊員の、最後の言葉、遺書が数多く展示されている唯一の場所こそが知覧特攻平和会館です。
1985年に開館した施設で、特攻隊員の遺書、遺品約4,500点が展示されています。
「疾風」「隼」といった特攻隊機として使用された飛行機も展示されているほか、特攻おばさんとして有名な「富屋食堂」の店主・鳥濱 トメさんが特攻隊員との思い出を語る映像を流しているVTRコーナーや、特攻に関する講話が随時行われる講話室もあり、特攻に関する全てのことを学ぶことができる非常に貴重な場となっています。
(ちなみにこの施設は館内は一切撮影禁止なので、このブログにも掲載している写真は全て館外にあるものです)
太平洋戦争末期にはじまった特攻作戦は、戦死者1,036名のうち、439名が当時の知覧基地から出撃しており、知覧は特攻隊員をもっとも多く見送った場所なのです。
沖縄がもはや戦場と化し、本土最南端の基地であった知覧から多くの若い命が、帰還することのない「必死」の旅路をたどったというわけです。
その知覧に建設された会館には毎年多くの人々が訪れ、たくさんのツアー客も見受けられます。
知覧から飛び立った特攻隊員の遺影を眺めながら、自分だったら死を目前にしてどのように振舞えるだろうか・・そんなことをぼんやり考えてしまいます。
彼らがあと数時間後に迫った出撃を前にしたためた遺書の数々は、まさに彼らの生きた証をくっきりとかたどった「声無き声」。
本当は、愛する人ともに生まれ育った土地でもっと生きたかっただろうに、
その自我を超越して国や父母、家族の行く末を案じながら、自分の命を差し出した若者たち・・
戦争が良いとか悪いとか論じる暇や余裕もなく、目の前の危機のために未練を断ち切り義務を果たそうとした若者たち・・
時代さえ違えば、普通に大学に行っていたり、サラリーマンとして働いている・・そんな年齢の隊員ばかりです。
なかには17歳で特攻に身を捧げ人生を終えた人もいます。17歳と言えば、今ならまだ高校生です。
数々の遺影、出撃前の写真を見ていると、それぞれの背後にある家族構成や家庭の事情など、人間くさい部分が見え隠れし、他人事とは思えないなんとも言えず感情で、魂が揺さぶられます。
自分の最期を知りながら、カメラの前で屈託なくニコリと笑う隊員・・
出撃を前に子犬と戯れる、あどけない笑顔を見せる二十歳にも満たない若者たち・・
自分がそこにいたら彼らに何と言葉を掛けられるのだろう・・そういった感慨にふけってしまうのです。
戦争なんてあって欲しくない・・
誰しもがそう思っています、誰もが平和を望んでいるに決まっています。
しかしながら、危機に瀕した国家の存亡のため、彼らは命を懸けて国を護るために身を投げ打ちました。
国を護り、家族を守り、そして何かを伝えるために・・。
戦後の日本は経済大国となりましたが、彼らが国の礎(いしずえ)となってくれたことを忘れるべきではありません。
日本の後世を案じ南の海に散った若者に敬意を表し、その「声なき声」に耳を傾けるべき、と僕自身は思っていますし、そんな気持ちに応えてくれるのがこの知覧特攻平和会館だと思います。
特攻隊とは?特攻がはじまった経緯は?
特攻隊はアメリカ軍が沖縄・慶良間列島に上陸した太平洋戦争末期の昭和20年3月26日にはじまっています。
既にサイパンが陥落したことで、沖縄をはじめ日本本土が射程圏内に入ったことで、アメリカ軍の大型爆撃機が毎日のように日本上空に飛来するようになり、繰り返し行われる空襲により、日本は多くの尊い人命を失っていました。
このような状況の中で、圧倒的な戦力の差を少しでも埋めるべく編み出された作戦、それこそが、特攻の生みの親・大西中将が「統率の外道」と呼んだ特攻です。
特攻は250キロ爆弾を乗せた飛行機で、敵艦に体当たりで突入していく、生還はもはやありえない作戦・・
それほどまでに当時の日本は非常に切迫した、待ったなしの状態でした。
ガダルカナル島の戦い以降敗戦続きだった日本軍。
停戦時の講和条件をより有利にするためにも、一矢報いることにより形勢を少しでも挽回する必要があった・・
それが特攻作戦という非常手段に出た背景です。
こちらが会館の外に展示されている「三角兵舎」です。
この三角兵舎は出撃直前の特攻隊員が寝泊りした建物です。
中の造りも寝床以外は限られたスペースしかなく、非常にシンプルです。
家族と連絡する手段もなく、出撃を前にしてどんな心持ちだったかを想像すると、いたたまれない感情が沸いてきます。
出撃の朝、世話役の人が特攻隊員の枕を見てみるとぐっしょりと涙で濡れていたということもあったそうです。
毛布を頭まで被って、嗚咽が漏れないように、泣いていた・・・ずしーんと胸が痛みます。
知覧特攻平和会館を訪問した口コミ感想
今回、久しぶりに鹿児島を訪れたわけですが、その目的のひとつが知覧特攻平和会館を訪問することです。
10年以上前に鹿児島を旅行で訪れた際にも一度来たことはあったのですが、その時の衝撃たるや凄いものがありました。
それ以後、何か思い悩むことがあると、ふと特攻隊員が書いた遺書の文面を思い出してしまうのです。
自分はいったい何に悩んでいるのか・・
何を迷っているのか・・・
自分の生に執着することなく、最期を目前に控えた若者がただただ、国そして父母や家族を想いながら、自らの本分を全うした姿を思うと、自分の至らなさを限りなく痛感してしまいます。
特攻隊員は爆弾を抱えて飛行機もろとも体当たりを仕掛けましたが、決して彼らは命を軽んじていたわけではありません。
ある隊員の遺書にも書かれています。
今特攻をやらねば大好きなお母さんが死んでしまう・・
国を守るという使命にかられながらも、彼らの心の中にはもっと身近な父母や家族が健やかに、そして平和に生活している姿を思い描いていたに違いありません。
日々空襲にさらされていた当時の日本には、自らの命と引き換えに敵に打撃を加える特攻しか身を挺する手段はなかったのです。
特攻隊員の遺書を読んでいると、彼らの家族を案じるとともに、後世に続く日本という国の安泰を願っていたことが読み取れます。
経済大国となった日本ですが、最近ではいとも簡単に他人の命を奪う事件や、モラル・道徳性を持ち合わせていない日本人が増えているようにも思います。
彼らの思い、願いを、われわれ後世の日本人は果たしてしっかりと受け止めて生きているでしょうか・・
そんな思いがふと頭をよぎってしまいます。
知覧に来て、彼らの遺書を読めば、彼らの伝えたかった思いが声なき声として、必ずや訴えかけてくることでしょう。
知覧から出撃した特攻隊に興味を持たれた方におすすめの本が一冊あります。
婚約者のスカーフを首に巻き、南方の海に散った穴沢利夫大尉の悲恋が克明に記された「知覧からの手紙」は読む人の心を揺さぶらずにはいられない傑作となっていますので、一読されることをおすすめしておきます。
知覧特攻平和会館への行き方、アクセス
最期に知覧特攻平和会館へのアクセス方法について説明しておきます。
わたしは鹿児島空港からレンタカーを借りて知覧特攻平和会館へ行きましたが、鹿児島空港からですと車で1時間15分程度。
高速道路を利用しましたが、下道で行くともう少し時間が掛かると思います。
鹿児島県内の主要都市でいくと、鹿児島中央駅からは車で1時間程度、指宿駅からだと45分程度と考えておけば大丈夫です。
高速道路もありますが、比較的信号も少ないので、それほど時間の違いは無いかも知れません。
また、JRやバスなど公共交通機関を利用した行き方は知覧特攻平和会館へのアクセスをご参照ください。
知覧特攻平和会館の入場料金、開館時間
入館料金
大人500円、小人300円
(団体の場合、大人400円、小人240円)
開館時間
午前9時から午後5時まで
年中無休
まとめ
特攻隊は単なる悲劇ではありません。
自分が愛する者のために惜しげもなく自らの命を賭けたその思いは、今の日本にも生き続けている「物語」だと思います。
命を賭けてでも護りたかった日本、そしてそこに住む人たち・・その思いを成就させるのは、間違いなく現代に生きる日本人だと強く思います。
コメントを残す