沖縄戦に散った最後の官選知事・島田叡が教えてくれた平和のありがたさと命の重み

沖縄戦で散った最後の官選知事・島田叡

みなさん、どうも僕です。

平和な日本・・・

このかけがえのない「平和」は、多くの日本人が必死に耐え忍んできた、いわゆるその「犠牲」の上に成り立っているとも思えます。

 

関西人の僕にとってとても気になったのが、熾烈を極めた地上戦を強いられた太平洋戦争末期の沖縄に、死を覚悟して知事として赴任した人物がなんと兵庫県出身の関西人だったことです。

アメリカ軍の沖縄上陸を前にして沖縄県知事として赴任した人物こそ「島田叡(しまだ あきら)」です。

島田叡

平和の礎(いしずえ)となり、今を生きる日本人にとっても多くの教訓を与えてくれる人物、沖縄戦で散った沖縄県知事・島田叡の生涯と彼が伝えてくれる大切なことについてお伝えしたいと思います。

 

最後の官選による沖縄県知事・島田叡(しまだあきら)とはどんな人物か

島田叡氏顕彰碑

島田叡(しまだあきら)は明治34年、現在の兵庫県神戸市須磨区に開業医の長男として生を受けました。

小さいころから成績優秀で、神戸二中(現在の兵庫県立兵庫高校)を経て、東京大学(当時は東京帝国大学)に入学しています。

成績優秀なだけではありません。

神戸二中時代から野球部で頭角をあらわし、名プレーヤーとして名を馳せます。

当時の名プレーヤーぶりは那覇市にある奥武山運動公園の中にある「島田叡氏顕彰碑」に詳しく書かれてあります。

島田叡氏顕彰碑

島田叡氏顕彰碑 ※クリックで拡大します

 

しかしながら、島田の良いところは野球が上手かっただけでなく、かなりの人徳者であったようです。

決して他人を責めることなく、他人のミスすら一人で責任をかぶってしまうほどの人徳を持っており、誰もが一目置く存在でした。

自分よりも他人を尊重する人柄というのはこの頃から持っていたようです。

 

東京大学に進んだ島田は、大学野球でも俊足巧打で鳴らす有名な存在になります。

いわゆる花形、押しも押されぬスター選手だったのです。

勉学が出来て、スポーツも万能。

まさに文武両道を地でいく人物だったのです。

 

東大を卒業した島田叡は内務省に入省。

勤務はおもに警察畑を担当し、13回各地を転任したと言います。

 

そして、昭和20年(1945年)1月、当時、大阪府内務部長だった島田は運命を左右する辞令を受けます。

沖縄県知事就任の辞令です。

 

当時の沖縄といえば戦局は日に日に悪化しており、沖縄本島へのアメリカ軍上陸は待ったなしの情勢にありました。

この状況下で沖縄に行くとなれば、命の保証はありません。

 

辞令を言い渡した上席者も「家族と相談して3日ほど考えてみては」と促したそうですが、島田はその場で知事就任を受諾したと言います。

その時の心境を島田はこう語ったと言います。

誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。

俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。

 

いかにも島田らしい言葉です。

島田叡という人は、自分の権利より義務を主張する人なのです。

 

現在では、都道府県の知事は選挙によって選ばれますが、戦前は知事職であっても中央官庁による任命、すなわち官選だったのです。

「他人に死にに行けと言うくらいなら俺が行く」

島田は決死の覚悟を抱き、青酸カリを持参して沖縄に赴任したと言います。

 

今回、島田叡のことを知りたくて沖縄の平和祈念公園(摩文仁の丘)に行って来ました。

 

そこに島田叡の座右の銘が石碑に彫られていました。

「断而敢行鬼神避之」

「断じて敢行すれば、鬼神もこれを避く」

つまり、退路を断って強い信念を持って行動すれば、どんな困難でも克服できる、という意味です。

島田は信念と思いやりを強く持った人物だったのです。

 

逃げることなく最後まで沖縄県民と共に行動した島田叡の生涯

島田が沖縄県知事として赴任するタイミングは、太平洋戦争において日本の敗色が日に日に色濃くなっている時期です。

当時、アメリカ軍が沖縄に上陸するのは時間の問題と言われていました。

 

このような時局にありながら、島田の前任の知事は、「出張」を理由に沖縄を空ける日が続いたといいます。

沖縄県民が最も居て欲しいと思う時に、知事は沖縄の地にはいなかったのです。

(その後、島田の前任知事は自ら官僚に働きかけを行い香川県知事に転任しています)

 

沖縄に着任した島田は、その類まれなるリーダーシップにて懸案となっていたさまざまな問題にすぐさま着手しました

  • 前任の知事時代に遅々として進んでいなかった住民の北部疎開を推進
  • 深刻化していた食糧不足に対処すべく自ら台湾に飛び、蓬莱米3000石分の確保を実施
  • 関係が悪化していた軍部との調整
  • 自ら住民のもとに出向き宴会に参加するなどして心が通う対話を実施
  • 行き詰った状況だからこそ、厳しい規制があった酒・煙草の放出を敢えて行うことで住民の精神的な苦痛を和らげた

 

前任知事は独善的な態度を取り、県民をあまり省みなかったこともあり、県民・県職員からは批判の的となっていました。

しかし、知事が島田に代わりその状況が一変、いろいろなことが前に進みだします。

 

常に県民の中に入っていく姿勢で真摯に取り組む島田に対し、沖縄県民そして県職員も多大なる信頼を置くようになります。

自ら率先して動き、他人を常に思いやる姿勢こそが、戦時で困窮する県民の心を開いたと言えます。

 

島田が沖縄県知事時代にとった行動や言動は島田叡氏顕彰碑にもしっかり書かれています。

島田叡氏顕彰碑

那覇市の奥武山公園にある島田叡氏顕彰碑  ※クリックで拡大します

 

そういった島田の奔走にもかかわらず、太平洋戦争の戦局は日に日に悪化。

軍は司令部を置いていた首里を撤退、沖縄本島南部へと逃れることとなります。

 

しかし、この軍司令部の南部への移動はすなわち南部にいた住民を巻き添えにすることとなり、島田は強硬に軍に反対したと言います。

こればかりは島田ひとりの力ではどうすることもなく、島田は県職員たちを引き連れてやむなく南部に移動したものの、熾烈さを増すアメリカ軍の追撃により、軍および県の組織系統は壊滅状態に陥ります。

 

アメリカ軍の猛攻の手は沖縄本島南部の南端、摩文仁にまで迫っていました。

万策尽き果てた島田は同行してきた県職員・警察官に対し「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、解散を命じます。

 

自決や玉砕がまかり通る戦場にあって、島田は住民に対して

「最後は手を上げて壕を出るんだぞ。生き延びて沖縄の再建のために尽くしなさい」

と語ったと言われています。

「命(ぬち)どぅ宝」・・・命こそ財産である

そんな沖縄の言葉がありますが、あたかも死ぬことが美徳とされていた時代にありながら、島田は沖縄住民に「生きなさい」と強く励ましたのです。

 

 

その後、昭和20年(1945年)6月26日に、苦楽を共にしてきた警察部長・荒井退造と摩文仁の壕を出た島田叡はその後消息を絶ちます。

島田の最期については正確な情報が無く、自決したとも、負傷し命を落としたとも言われています。

文官でありながら沖縄県民と最期まで行動を共にし最後まで逃げず困難と闘った、沖縄最期の官選知事の命は哀しくも果てることとなったのです。

 

島田叡が現代の日本人に教えてくれたこと

「沖縄戦でなくなった戦前最期の知事が実は関西人だった」

それを知って同じ関西人の僕は非常に興味を持つとともに、特別な思い入れを持ってしまったのですが、知れば知るほど、島田叡という人物はすごい人だと思うようになりました。

 

興味を持った僕は島田叡にまつわる場所を訪れてみました。

「島田叡氏顕彰碑」がある那覇市の奥武山公園には、島田が生まれた兵庫県との繋がりを象徴する「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と命名された野球場があります。

島田が大好きだった野球をするグラウンドに「兵庫」と「沖縄」、そして「友愛」の言葉が刻まれています。

兵庫と沖縄の深い繋がりがこんなところにも感じられます。

 

もともとは島田にとって縁もゆかりも無かった土地である沖縄。

自分の命が脅かされることがわかっていたとしても、沖縄県知事としての使命と、自らの信念を曲げることは決してありませんでした。

どんなに苦しくとも、沖縄県民とともに行動し、常に懸命に県民を助けた姿勢に心打たれない人はいないでしょう。

 

自分よりもまず他者を考えたその姿勢は、行政を行う長として称えられるべきものだったと思います。

島田が自らの行動をもって示したことは、現代に生きるわれわれにも多くのことを指し示してくれてるように感じます。

 

今の世の中を見ると、自分のことばかり考える人だらけでちょっとウンザリもしてしまいます。

しかし、ほんの数十年前の日本に、極限状態に置かれながら自己犠牲をもろともせず、命懸けで同胞を助けようとした日本人がいたという事実に、嬉しくもあり、日頃の行動を反省させられるところです。

 

今回、僕が訪ねてきた「沖縄戦終焉の地」でもある沖縄県平和祈念公園には、戦火に倒れた島田叡や県職員を弔う慰霊塔と、沖縄を守った島田叡らを称える「島守の塔」が建てられています。

 

これらの碑を見ながら、少し思いにふけってみると、現代の日本人は果たして命を懸けて守ろうとした島田の思いをわれわれ現代の日本人は少しでも汲み取れてるのだろうかと申し訳ない心境に陥ります。

命を懸けて伝えたかった島田の遺志を、そして願いを、現代の日本人がちゃんと受け継いでいるだろうか・・・

 

自分のことは二の次、三の次で、自分の権利や欲には目もくれない。

そうやって命を懸けて戦った島田叡のような日本人が居てくれたからこそ今の日本があると言っても過言ではありません。

 

自分よりも、まず他者を助けたい。

自分の命より大切な守るべきものがある。

 

戦時に日本や日本の住民のために命を尽くして努力した島田叡や多くの人たちが作った目に見えない「平和の礎」は、代々受け継いでいかなければならないと思います。

 

お金では買えない、かけがえのない平和。

今われわれ現代人が享受しているこの平和は、島田をはじめとする多くの人の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはなりません。

 

そして、命を懸けて同胞を守ろうとした島田叡という人のことを後世に伝えていくことこそ現代に生きる私たちの義務がある、そう感じてなりません。

 

 

島田叡の沖縄での奮闘ぶりや生き様、そして言動はこの本によく描かれていますので、ご興味がある方は手に取ってみられることをお勧めします。

 

まとめ

最期の官選知事として沖縄に赴任し、哀しい最期をとげた島田叡。

島田叡の生き様は平和の有り難さと勇気をもって行動することの大切さを教えてくれてるように感じます。

自ら退路を断ってより多くの住民の命を救おうとした一人の内務官僚の生き様は後世にも語り継いでいかねばならないと思います。

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もんりっち

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